「空へ」  SORAより

 彼女がいなくなってしばらく何も手に付かず、残されたわずかな彼女の欠片をただ眺めていた。
 心の準備を何もさせず、彼女はいなくなってしまった。
 彼女の声、しぐさ、肌の感触。それらはまだ生々しく残されているというのに、二度ともう感じることはできない。
 せめて、あの笑顔だけでももう一度見たい。
 それが、「彼女」を作るきっかけとなった。


 目覚めた時、初めて目にしたのは動かない空。
 その空が絵だと知るまで、随分かかった。
 その空にはふわり、ふわりと雲が浮いている。
 見上げれば今にもそこにありそうな空。
 Mで始まる画家の書いた空の絵。

「君」
 彼はそういいながら手を伸ばしてくる。
「君は本当に、この絵が好きだねぇ」
 彼の手の中にすっぽりと納まると、この上ない安心感を感じる。
 目の前にいるのは彼だけ。他には誰もいない。
 そして空。目覚めてからずっと側にある空。
 彼はこの絵の名前に惹かれてこの空を手にしたのだと教えてくれた。
「びっくりしたんだよ。こんなにのどかな空の名前が、「不幸」なんだから」
 そういいながら唇の端を少し上げる。苦い笑みのカタチ。
 その顔をどれだけ、どれだけ愛しいと思っただろう。

 ある日、豪雨がやってきた。
 屋根を壊さんばかりに叩く雨の音。
 初めて聞くその音に震えていると、彼は珍しく傍に寝具を広げ、隣で眠ることを約束してくれた。
 そして初めて見る彼の寝顔。
 それを見ているだけで、安らかな、穏やかな感じに包まれてくる。
 どんな夢を見ているのだろう。まつげが時折震える。
 彼の夢の中に出ることができたら。
 夢を見ることができたら。
 そうすれば、彼に触れることができるのに。
 彼が、その長い指で優しく触れてくれるのに。

 翌朝。
 窓から差し込む光が信じられないぐらい明るくて目を細める。
 その光は真っ直ぐに彼を照らし、そして彼は身じろぎする。
 ふいと伸ばされた手が、真っ直ぐに迫ってくる。
 避けることもできない狭いガラス瓶の中で、迫ってくるその手を、ただ見ていた。
 その手に弾き飛ばされた時、くるくると回りながら、絵を、空を探した。
 がしゃんっ!!と凄い音に叩きのめされた次の瞬間。
 空が、あの空が、目の前に広がっていた。
 ああ、そうか。だからあの空は「不幸」とつけるしかなかったんだ。

 がしゃん!!
 ガラスの割れた音で反射的に目を覚まし飛び起きる。
 瞬間に沸き起こるのは後悔。
 咄嗟に机の下を探す。しかし、探すものは見つからない。
 焦りのまま机の上を探す。
 そして、窓が割れているのに気づく。
 ああ、ここから落ちたのなら、もう取り返しが付かない。
 彼女は、あの中から出ては生きられない。
 諦めのまま、窓を開ける。
 そして散らばるガラスの破片を見止める。
 ガラスの破片に陽光が反射する。
 そのきらめきの中、彼女はゆっくりと拡散を始めていた。
 これで、彼女は全て、失われてしまった。
 あと一日。それで彼女は安定したのに。
 何もできないまま、彼女がゆっくりと消えてゆくのを見つめていた。
 そして、空を見上げる。
 目の前に広がるのは、彼女が気に入ったあの絵と全く同じ空。
 ああ、そうか。だからあの空は「不幸」とつけるしかなかったんだ。


ヒトコト 草刈 青の難しさ、まだまだ空へも海へも届かない。
深瀬 「不幸」と名の付いた絵は存在しまして、その題名に似合わないほどのんびりした空が描かれています。
「空に溶けてゆく」表現を書こうと思ったら、これかあるいは自殺ネタしか思いつきませんでした。ごめんなさい。

挿絵  草刈
文章  深瀬 ('0207・書き下ろし)

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